江戸時代の瓜子姫その2

江戸時代、瓜子姫が「江戸」の民衆の間であまり広まっていなかったらしい、というのは前回紹介しました。
その根拠は、『嬉遊笑覧』の記述です。信濃の人から聞いた珍しい話……として紹介されているのです
江戸時代、瓜子姫はメジャーでなかっただろう、というのを推し量るもうひとつの資料があります。それは、滝沢(曲亭)馬琴(たきざわ(きょくてい)ばきん)『燕石雑志』(えんせきざっし)。
あの、『南総里見八犬伝』(なんそうさとみはっけんでん)を書いた馬琴の随筆です。
この書物には、当時伝わっていた昔話のの考察があるのですが、だいたい予想通り、「瓜子姫」の考察はありません。そして、「桃太郎」での考察でも、「似たところがある」とすら言っていないのです。これは、馬琴が瓜子姫を知らなかった、と見るのが妥当でしょう。馬琴は非常に博識な人物でしたが、その馬琴ですら、瓜子姫を知らなかったのです。いかに、江戸ではマイナーな昔話だったか、ということでしょう。
一方、
地方都市に関しては、江戸時代におもしろい記録が残っています。
それは、広島の儒学者奥田頼杖(おくだらいじょう)の発言です。『心学 道の話』という、頼杖が江戸に出たときの講演を記録した資料があり、そこでおそらく「瓜子姫」であろうと思われる話に言及しており、この昔話は菅原道真が作った、としているのです。
もっとも、この講演は一般大衆向けのものであり、「瓜子姫」も、「男女の別を守ればよいことがある」ということをわかりやすく説明するために使用されたにすぎません。菅原道真説は、完全に根拠がなく、一般人にもなじみのあるビッグネームを出して大衆の心をつかもううとしたと見るのだ妥当でしょう。
しかし、ここで注目されるのは、「川から流れてきた」昔話ということで、頼杖が「瓜子姫」を出してきたということです。「桃太郎」ではなく、「瓜子姫」であったのです。一般民衆向けの講演である以上、持ってくるのは一般的に広く知られている昔話でしょう。頼杖は、「瓜子姫」を、どんな山奥でも語られている話としていますが、これは「当時の広島周辺では、「瓜子姫」はかなりメジャーな昔話だった」ということが窺い知れるのです。
ちなみに。当時の講演を聞いた人々は江戸の町人であり、当然、「瓜子姫」を知らなかったはずです。だから、「え、川から流れてきたのが瓜? 桃じゃないのか? と混乱したことでしょう。
現在でも、広島県では山間部を中心に「瓜子姫」が数多く採取されており、この状況は江戸時代から続いていたということは間違いないのです。ただ。頼杖の話では、詳しい内容にまで突っ込んではおらず、その話が瓜子姫が殺される型なのか、縛られるだけの型なのか不明です。そこが、残念なところではあります。

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